Posted On 2026年5月22日

ジョン・ギャラガー&カール・センタンス 来日インタビュー (LORDS OF NWOBHM)

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Interview&Text&Pix●奥村裕司/Yuzi Okumura
通訳●小島佳美        

 ’26年1月、NWOBHMの古兵達──RAVEN、TANK、PRAYING MANTIS、DIAMOND HEAD、PERSIAN RISKの新旧メンバーが一堂に会した、その名もLORDS OF NWOBHMによる来日公演が行なわれた! 正にマニア垂涎のラインナップは以下の通り。

●カール・センタンス<Vo:元PERSIAN RISK>
●クリフ・エヴァンス<G:TANK>
●ティノ・トロイ<G,Vo:PRAYING MANTIS>
●ジョン・ギャラガー<B,Vo:RAVEN>
●カール・ウィルコックス<Ds:DIAMOND HEAD、TANK>

 当初このプロジェクト/バンドのベーシストは、元ANGEL WITCH~TYTANのケヴィン・リドルズが務めるハズだった。しかし──’25年7月、彼は…何とも残念なことに急逝。その穴を埋めるべく声が掛かったのが、誰あろうジョン・ギャラガーだったのである。それにしても、実に錚々たるメンツだ。NWOBHMフリークにとっては、何といってもカール・センタンスの日本初上陸が大事件に違いない。昨年末にNAZARETHから脱退してファン驚かせた彼は、ドン・エイリーのソロ・バンドの一員としても知られ、過去にはTREDEGAR、PAUL CHAPMAN’S GHOST、KROKUS、GEEZER BUTLER BANDなどで歌ってきた英国HR/HMシーン屈指のレジェンド・シンガーだ。

 そんなカールが、PERSIAN RISKは勿論のこと、DIAMOND HEADやTANKの曲を歌うのだから凄い! RAVENの曲はジョンが、PRAYING MANTISの曲はティノが主に歌ったものの、意外やカール歌唱のTANKも決して悪くない。勿論、故アルジー・ワードとは似ても似つかないが、クリフ・エヴァンス&ミック・タッカー・ヴァージョンのTANKには、かつてドゥギー・ホワイトやZP・サートが在籍し、’19年来日時にはPINK CREAM 69で知られるデイヴィッド・リードマンがフロントを務めていたのだから、それらを聴いてきたファンとしては、メロディック・ヴォーカルのTANKには免疫(?)があるのだ。

 さらに嬉しいサプライズが。何と、LORDS OF NWOBHM構成メンバーとは直接関係のないバンドの楽曲もガッツリ披露されたのだ。というか、ショウはいきなりSAMSONの「Riding With The Angels」(’81年『SHOCK TACTICS』収録)でスタート。多くの観客が「えっ…そうくるか?!」と意表を衝かれる中、以降もTYGERS OF PAN TANG、SAXON、DEF LEPPARD(!)、ANGEL WITCH、そしてMOTÖRHEADの人気ナンバーがプレイされた。そう、LORDS OF NWOBHMとは決してただの同窓会バンドではなく、かつてのNWOBHMの当事者達が、その遺産を今に伝えることを目的として結成されたのだ。とすれば、アンコール最後をIRON MAIDENでシメたのも納得だし、そこに大きな意味が込められてもいたことだろう。

 結果、東京での2夜連続公演は大盛況。開演を告げるイントロSEが、エルガーの「威風堂々」だったのも最高だったし、TYGERS OF PAN TANGナンバーはジョン・サイクスとジョン・デヴァリル、ANGEL WITCHナンバーはケヴィン・リドルズ、IRON MAIDENナンバーはポール・ディアノとクライヴ・バーへの追悼としてプレイされたことも特筆しておきたい。また、観客の中にNWOBHMをリアルタイムで体験していない世代が少なからずいたことにも、メンバー全員がいたく感激していた。

 日本公演に先駆けて、英ロンドンにてウォーム・アップ的なショウが行なわれたとはいえ、日本公演が事実上の初ライヴであり、大いに手応えを感じたメンバー達は、来年の“KEEP IT TRUE”フェスへの出演など、今後の活動継続も決めている。ロンドンでは元IRON MAIDENのデニス・ストラットン<G>が飛び入りしたそうだし、次なる展開が色々と楽しみになってくる…!

 そんなLORDS OF NWOBHMへの取材が、公演2日目のリハ後/開演前の慌ただしい時間を縫って実現した。今回インタビューに応じてくれたのは、ジョン・ギャラガーとカール・センタンス。ただ後者は、基本ライヴ前には取材を受けないとのことで、特別に5分だけなら…と途中参加&短時間で離脱することに。ただその分、ジョンがたっぷりしゃべくりまくってくれたので…というか、当初の予定時間を大幅に過ぎて、なかなかの長編インタビューになっているので、どうぞたっぷりご堪能あれ~。

 尚、みなさんご存知の通り、ジョンは’25年8月にくも膜下血腫で倒れ、2度の手術を経て、何とたった4ヵ月とちょっとのブランクで来日。来日時67歳で、年齢的&体力的にも大いに心配されたが、当の本人はケロっとしており──インタビューはまず、その話題からスタートした…。

──入院されていたと聞き、本当に来日出来るのか心配していましたが、昨日のライヴを観て安心しました。ただ、回復されたとはいえ、日本まで長時間の飛行機移動は問題にならなかったのでしょうか?
ジョン・ギャラガー:ああ、問題ない。医者からも「乗って大丈夫」と言われたし。実際、飛行機にはもうかなり乗っていたんだ。(’25年の)クリスマスには、北米を横断してオレゴン州ポートランドまで飛び、娘に会いに行ったりもしていたし。ただ、医者は「体力的にはどうか…」とも言っていて、実際この病気になってからは、エネルギーを全部吸い取られるような感じでさ…。
 家にずっといると、「何かやらなくちゃ」と、とにかくじっとしていられないから、ギター製作でもやるか…となっても、5分とか10分とか作業するだけで(疲れてきて)、「もう寝なきゃ」ってなる。今は抗てんかん薬も飲んでいてね。でも、何だか疲れ易くなったような気がするし、体重も増えて、気分が落ち込むんだ。だから、帰国したらまた医者に診てもらって、違う薬を試すことになるだろうな。それで脳がちゃんと“戻ってきて”くれたらイイんだけど。前は、検査したら脳が見つからなくてさ…!(笑)
──(笑) ファンとしては、心配な気持ちもある一方、ライヴも楽しみたいし…で、なかなか複雑なところだと思います。ともあれ、引き続きお大事になさってください。
ジョン:うん、ありがとう。
──さて、本題へ。そもそもLORDS OF NWOBHMは、どのようにして始まったのでしょうか?
ジョン:クリフ(・エヴァンス)から連絡があったんだ。彼とは’85年以来の付き合いでね。当時、TANKがアメリカでRAVENのオープニング・アクトを務めてくれたのがキッカケだった。それで、今回「こういう企画があるんだけど」と誘われたのさ。言ってみれば、NWOBHMのジュークボックスみたいな感じだな。その時、「カール(・センタンス)も参加する」って言われたよ。カールとも’80年代からの知り合いで、ティノ(・トロイ)とは会ったことがなかったけど、実際に会ってみたら素晴らしいヤツで、だから凄く楽しんでやれているよ。
 どのみち、アクシデント(くも膜下血腫)のせいで何もしていなかったし、「これはリハビリの一環としても良いんじゃないか?」と思ったんだ。何しろ、ステージに出て演奏出来る──それだけで良かったね。

▲Carl Sentence<Vo>
▲Cliff Evans<G>
▲Tino Troy<G,Vo>
▲John Gallagher<B,Vo>
▲Karl Wilcox<Ds>

──当初の計画では、ベーシストはケヴィン・リドルズだったそうで…。
ジョン:ああ、彼がベースを弾くハズだったんだ…。他の連中もみんなロンドン出身だし、それは理に適っていた。ケヴィンは素晴らしいプレイヤーで、信じられないぐらい良いヤツだったな。(RAVENが)初めてロンドンで演奏した時、ANGEL WITCHのオープニングをやることになってね。当時から彼はフレンドリーで、親切で、本当に良いヤツだった。幸運にもここ10年ぐらい、何度か会う機会があったんだ。だから、(亡くなって)とても悲しい。今は彼がやるハズだったパートを、出来る限り埋めようとしているよ。

──今回、メンバーそれぞれが在籍する/したバンドの曲をやるのだと思っていたら、直接関係のないバンドの曲もセットに入っているようですね?
ジョン:うん。NWOBHMのファンが何を聴きたいと思っているか──それに合わせたんだ。わりと明白だったよ。まず、それぞれのバンドから、どの曲が一番良いかを考え、数曲ずつ選んでいったら、10曲ぐらいになったんで、それに加えてTYGERS OF PAN TANGとか、IRON MAIDENとか、SAMSONとか、そういうのも「やろう!」ってことになった。でも、別にマニアックな曲をやるワケじゃない。どれもよく知られている曲だよ。みんな同じルーツを持ってるから、そういう曲を演奏するのって、とっても自然なことなんだ。プレイしていて楽しめるしね。

 ── ここでカール登場 ── 

──カールは、日本に来るのは初めてですか?
カール・センタンス:そうなんだ。だから、色々と楽しみだよ。
──これまでに色々なバンドで歌ってきましたが、日本でライヴを行なう話は一度も出なかったのでしょうか?
カール:ああ、一度もチャンスがなかった。11年近くNAZARETHに在籍していたのにね。自分でもビックリだよ。アメリカ、ブラジル、カナダ、インド、ロシア、ニュージーランド…世界中あらゆるところで歌ってきたのに、これが初めてだなんてさ! あ…いや、一度だけ空港を通過したことがあったな。ニュージーランドへ行く途中にね!(笑) ホント…これまで日本を訪れる機会がなかったなんて不思議な感じがする。でも、だからこそ今夜のライヴが凄く楽しみだな。
──以前にドイツの“Wacken Open Air”フェスでNAZARETHのショウを観たことがあって、あの時はメチャクチャ感動しました。
カール:ヴァッケンだって? いつだい?
──コロナ前のことで……
カール:ああ、’18年だな! うん、本当に素晴らしかったのを憶えているよ。あんなに大きなテントは生まれて初めて見たね。
──はい、巨大なテント・ステージが満杯でした。
ジョン:ああ、ヴァッケンのテント・ステージね。あそこは軽く5000~6000人は収容出来るだろうな。

──今回のLORDS OF NWOBHMでは、当然カールがメイン・ヴォーカルを務めつつも、RAVENの曲をやる時はジョンが歌うのですよね?
ジョン:ああ、何曲か歌うよ。この男(カール)を2分ほど休ませるためにね!(笑)
カール:そいつはどうも…!(笑)
ジョン:カールとティノ、そして俺の声が合わさると、なかなか良いブレンド具合になるんだ。いい効果が出せる。ちょっとした奥行きが出るというか。
──カールにPERSIAN RISKのことを訊きたいのですが、アルバム・デビューまでにちょっと時間がかかりましたよね? その前にシングルを何枚か出してはいたものの…。
カール:そう、3年以上かかったな。シングルやEPは出していたけど…何でだったんだろう? もう随分前のことだからなぁ。
ジョン:まぁでも、あの頃はそれが普通だった。まずシングルを出して、そこから大きな契約を探すのがね。
カール:そうだったな。実は、幾つかオファーはもらってたんだが、バンドの半分があまり乗り気じゃなくてね。RCAからもオファーがあった。大きなチャンスだったよ。だって、ビッグ・レーベルだろ? 但し、最初の5年間は売上の50%をレーベルがもらうという条件だった。
ジョン:ほぉ~、それはそれは。
カール:当時、俺達はまだ若かった。若い時の5年間なんてあっという間だ。だから、俺は(オファーを)受けるべきだと思ったよ。だって、メジャー契約なんだからな。断る理由がない。でも、結果的にバンドとしては受けないことにした。残念だったよ。その後、もうレーベル名すら思い出せないけど、(インディから)『RISE UP』というアルバムをようやくリリースしたんだ。
──Metal Mastersから、’86年のことでしたね。
カール:ああ。いま思えば、もっとやるべきだったな。次のレヴェルを目指すのなら…ね。

▲『RISE UP』(’86)

──これはお2人に訊きますが、当時、NWOBHMの一員だという自覚はありましたか?
カール:全然なかったね。俺達はただのロック・バンドだったよ。
ジョン:あれはサウンドやジャンルじゃなくて“時代”だからな。実際、殆どのバンドがそれぞれ違うことをやっていた。RAVENとIRON MAIDENは全く違っていたし、MAIDENとVENOMも似ても似つかないし、VENOMとSAMSON、SAMSONとDEF LEPPARDを同じジャンルに入れるのも無理がある。共通項があるとしたら、みんなエネルギーと情熱に満ち溢れていたことぐらいだ。
カール:ああ、そうだな!
ジョン:それから、少しばかりのDIY精神。それってパンクから生まれた精神だけど──俺の知る限りでは、殆どのバンドはただ音楽が好きで、バンドがやりたかっただけで、ホントはパンクなんて大嫌いで、そうしたシーンから抜け出したがっていたよ。
──PERSIAN RISKは“ヘヴィ・メタル”というよりも、どちらかというとハード・ロック寄りだったのでは?
カール:まぁ…そうだな。でも、当時はそんなことすら考えてもいなかった。
ジョン:でも、曲によってはよりハードだったよな? 『RISE UP』にすら、そういう曲が入っていたし。ちょっとJUDAS PRIEST的というか。特にヴォーカルがそうだったし、良い曲が沢山あった。
カール:うんうん、分かるよ。(PRIESTは)俺達にとってのヒーローだったからな。大いに影響されたが故に、スタッズだらけの素敵なリスト・バンドにもお世話になった(笑)。当時は、ポール・ディアノも同じような恰好をしていたよね。


──ただ、シングル時代はPRIESTっぽさもあったものの、EP『TOO DIFFERENT』(’84)から『RISE UP』と作を重ねる中で、よりキャッチーでポップになっていきましたよね? あれはレーベルからの要請もあったのでしょうか?
カール:いや、そうじゃなくて…バンドを取り巻く状況が変わっていったからさ。’80年代も半ばになると、バンドとしても、ミュージシャンとしても、ツアー経験を積んでいけば、色々なことを試したり、実験したりしたくなるものだ。いや、でも確かに少し変わっていったな…。
ジョン:レコーディング・バジェットも関係しているんじゃないか? 制作費が低いことで、エネルギーやアグレッションが抑えられることだってあるだろうし。逆に、低コストでも素晴らしい作品になるはあるけど。でも、泥臭い部分が取り払われて、何となくキレイにまとまってしまうこともあってね…。
カール:うん、そういうこともあるよ。え~と、そろそろ時間なんで…。
──ショウ前に無理を言ってすみません…。ありがとうございました!
カール:(缶ビールを片手に)俺はアルコール中毒じゃないからね。(ショウ前に)リラックスするために、ほんの少しだけ…少しだけだよ(笑)。
ジョン:うんうん、(酒は)“聖なる薬”だからな!(笑)

 ── と、カールが早々に退場 ── 

──さっきパンクの話が出ましたが、NWOBHMといえばパンクの影響…というか、パンクがあったからNWOBHMが生まれたとさえ、最近ではよく言われるようになっています。それについてはどうですか?
ジョン:いやいや、ありえない! 当時、ニューカッスルでリハーサルをしていたら、突然パンクの連中がやってきて、「他のバンドを観に行ってたんだけど、酷くてね~。何か演奏してくれないか?」って言うから、「ああ、俺達はあと1曲プレイしたらパブに行こうと思ってて」と返したら、「なるほど、そりゃイイね!」と。ところが、そいつと話してるうちに、誰かが俺のベースを掴んで逃げ出したんだ。
 俺はすぐに追いかけて、そいつを捕まえてギターで殴りつけた。すると、他の連中も出てきて、俺に飛び掛かってきたから、ギターを振り回して格闘するうちに、何と手首を折られてしまって…! 昔のプロモーション写真に、俺がギプスをはめて写っているのがあるけど、その時に撮ったんだよ。そんな感じで、ニューカッスルではパンクスとの間でしょっちゅうケンカになっていたな。
 でも、いま振り返ればSEX PISTOLSは最高だったし、SHAM 69も素晴らしかった。CRASHはあまり好きじゃなかったけど──まぁ、殆どの(パンク・)バンドはまともに演奏出来なかったからね。確かに、パンクスはエネルギーに満ち溢れていたよ。でも、俺達だって負けないぐらいエネルギーの塊だった。それに、連中が嫌っていたバンドを、俺は好きでよく聴いていたんだ。GENESIS、EL&P、PINK FLOYD、それから…DEEP PURPLEも。「パンクの方が素晴らしい」と言うヤツもいたけど、俺はそうは思わない。個人的な好みだけどさ。まぁ、そういうことはいつだって起こるよね。
 そして──時代は巡り巡って、どんどん新しい流行りがやってくる。グランジ、NUメタル…ときて、今は何だ? 神のみぞ知る…ってか? 俺達はそういった時代を乗り越えてきたんだ。’90年代初頭にアメリカで状況が厳しくなった時は、ヨーロッパに活路を見出した。その後、ヨーロッパでもNUメタルが主流になってくると、今度は日本でも頑張った。そういうことの繰り返しさ。(流行は)何度もやってきては去り、また戻ってくる。しかし、俺達の音楽(HR/HM)は途絶えることがない。常にコアなファンがいるからな。
 他の音楽ジャンルとは違い、「これは好き」「あれは嫌い」なんてポンポン好みが変わったりしないんだ。夢中になったヤツは、一生この音楽に没頭する。それが人生のサウンドトラックで、人生の中核を成す力の源だからさ。そして勿論、俺達の中核を成すモノでもある。俺を切ってくれよ。そしたら“リフ”という血が流れだすよ(笑)。
──当時、IRON MAIDENがDIAMOND HEADやPRAYING MANTISと一緒にツアーを行なっているのをどう見ていましたか?
ジョン:彼等はある意味──まぁ、俺達よりも少し先を行っていたんだ。ロンドンを拠点にしていたしね。つまり、(日本でいえば)東京のバンドなんだ。一方、RAVENは…そうだな、例えば沖縄でロック・バンドをやっているような感じかな? いや、俺達は火星にいた…と言ってもイイかもしれない。だって、(ロンドンとニューカッスルは)1000マイルも離れていたんだからな。(※実際には約250マイル)
 当時は、毎週発行される音楽紙/誌をよく読んでいたよ。『New Musical Express(NME)』とか『Melody Maker』とか『Sounds』なんかのことだ。特に『Sounds』は、ヘヴィ・ロック好きに支持されている音楽紙だった。まだガキだった’73年には、載っているバンドの半分も知らなかったけど、そのうちに全部分かるようになって──ある時、“New Wave Of British Heavy Metal”についての記事を見た。確か、IRON MAIDEN、ANGEL WITCH、SAXON、それから多分、PRAYING MANTISなんかが載っていたんじゃないかな。それで「おっ、これは面白いぞ」と思ったよ。
 同じ頃、よく対バンしていたTYGERS OF PAN TANGがシングルを出して、良いレビューを書いてもらっててね。そんな時、地元の小さなクラブでプレイしていたら、終演後にTYGERSのマネージャーがやってきて、「シングルを出してみないか? Neat Recordsからだよ」って言うんだ。俺は「ハイっ! 是非!!」って即答したよ(笑)。その1週間後にスタジオ入りし、ライヴで2曲録った。それが「DON’T NEED YOUR MONEY」(’80)としてリリースされ、それ以前は小さなクラブで細々とプレイしていたのに、シングルが評判となったことで、3ヵ月もしたら、OZZY OSBOURNEやWHITESNAKEやMOTÖRHEADの前座に起用されたんだよ。そうなると、もう勢いは止まらなかったね(笑)。

▲「DON’T NEED YOUR MONEY」(’80)

 但し、やっぱりロンドンにいる連中とは状況が違ってて、俺達には何のコネもなかった。Neat Recordsなんて弱小レーベルもイイとこで、資金は乏しいし、経営者はズル賢くて、ケチで、言ってみれば誰かから金を盗むようなヤツだったね。それで、他のレコード会社を探そうとしたものの、なかなか上手くいかず、「じゃあ、アルバムを出して、どうなるか見てみよう」と、『ROCK UNTIL YOU DROP』(’81)を制作し、リリースしたところ、これが大好評で、セカンドを出す前に、俺達はBBCの『Friday Rock Show』に出られることになった。

▲『RADIO HELL:THE FRIDAY ROCK SHOW SESSIONS』(’92)

 その時のスタジオ・セッションで、俺達は「これが本物のスタジオか…」と思ったよ。あと、本物のエンジニアとも出会った。その時点では、もうセカンド『WIPED OUT』(’82)はNeatから出ることが決まっていて、(BBCと)同じような環境でレコーディングするなんて、とても不可能だと思ったね。だから、「次のアルバムは、本物のプロデューサーと本物のスタジオで作ろう」と決意を固めたのさ。つまり、Neatに対し「No!」を突き付けたということ。それで彼等も遂に折れ、「プロデューサーは誰がイイんだ?」と訊かれたから、「マイケル・ワグナーだ」と言ってやった。それがサード『ALL FOR ONE』(’83)として結実し、そこから新しいフェイズが始まったんだ。
 ’82年から’83年にかけては、アメリカへ渡り、契約が取れるまでツアーを続けるつもりだった。結局、それは’84年まで続いたけど、そうやって長いトンネルからようやく抜け出し、俺達はAtlantic Recordsとのディールを手にする。ところが…そこも、それはそれは酷い──本当に最悪なレーベルだったんだよ(苦笑)。まぁ、人生は学びの連続…ってことかな? だって、AC/DCやLED ZEPPELINの所属レーベルなんだよ。しかし、Atlanticの連中の殆どは、音楽のことなんて何も分かっちゃいなかった。アイツら、コンビニで働いている気でいたんじゃない?(笑) それぐらい、音楽のことに関心がなかったんだ。
 しかも、RAVENと契約したヤツは本来ディスコ担当で、ロック担当の男はリハビリ中…。そいつがやっと戻ってきた時には、もう誰もRAVENに興味を示さなくなっていたよ。だから、せっかくメジャー・ディールを手にしても、俺達が進む道のりは実に険しかった。本当に大変だったな。レコード会社とマネージメントの狭間で大変な苦労をしたし…。IRON MAIDENにはロッド・スモールウッドがいて、EMIとの契約を獲得し、そこからどんどんキャリアを発展させ、バンドとしての地位を築いていった。一方、RAVENはというと、ドカン、ドカン、ドカン! …って、燃えている船から別の燃えている船に飛び移る──その連続だったね(苦笑)。
 まぁでも、それが人生ってモンさ。あとからぐだぐだ言ったところでどうにもならない。与えられたカードで何とか対処するしかないんだ。いや~、「かつてあなた達のオープニング・アクトを務めたMETALLICAは、今や超ビッグになりましたね!」って、何度訊かれたことか!(笑) その度に「ああ、そうだね。彼等に神のご加護がありますように」って答えてる。彼等はチャンスを掴んでステップ・アップしたけど、俺達もチャンスを掴んできたんだ。その後の状況が違うだけさ。
 でもな…俺は今、こうして日本にいる。それってニューカッスルで育ったクソガキにとって、どれだけ凄いことか…! だから、謙虚にならなきゃ。だって、(違う人生だったら)今ごろは工場で働いていたかもしれないし、もしかしたら、もう老人ホームにいたかもしれない(笑)。だからこそ、俺達の音楽を好きでいてくれるファンのために、ステージで最高のパフォーマンスをする責任があるんだ。俺達はそれを糧にしているし、それが大好きだから、毎回100%出し切る最高のショウにしなければならない…と肝に銘じているよ。
──同じニューカッスル出身のNWOBHMバンドにはSATANがいましたが、ドラマーのショーン(・テイラー)は元RAVENでしたね?
ジョン:そう。彼とは去年の3月に会ったよ。去年やった唯一のギグは、米ヒューストンの“HELL’S HEROES”フェスティヴァルで、そこにSATANも出演していたんだ。ラス(・ティピンズ:G)、ブライアン(・ロス:Vo)、グレアム(・イングリッシュ:B)、ショーンと、それから…スティーヴ(・ラムズィー:G)だな! みんなと過ごすのは本当に楽しかった。本当に良いヤツらだからね。ショーンとは──’77年とか’78年だったかな? 2年間ぐらい一緒にプレイしたんだ。

──ショーンがいた頃は、もうトリオになっていましたか?
ジョン:いや、まだ4人組だった。ポール・ボーデンという、バンド結成時からのギタリストがいたからね。でも、ポールが辞めた時、ショーンもほぼ同時に脱退したんだ。新しいギタリスト(ピート・ショア)が入ったんだけど、上手くいかなくて、それでショーンは「別のことをやるよ」と言って出ていったのさ。そして、(後任ドラマーとして)ロブ(“ワッコ”ハンター)が加わった。その際、「このギター(ピート)はダメだな。サヨナラしよう」となり、それでトリオになったというワケだ。
 あれは大きな大きな変化だったね。突然、サウンドにスペースが出来て、そのおかげで、俺は細かいパートを加えるようになったし、ロブも色々やるようになったし、マーク(・ギャラガー:ジョンの実弟)はというと、ギタリストとして一夜にして才能を開花させたんだ。まるで魔法みたいだった。マークが言っていたよ。「もうこれでパートの奪い合いをしなくてイイ。(ギター・パートは)全て俺のモノだ。やりたいことが自由にやれる!!」ってね。そう、ヤツは文字通り一夜で変貌を遂げたんだ。クレイジーこの上ない今のマークにね…!
 あと、みんな沢山のアイディアを持っていたから、そこからオリジナル曲が一気に増えていった。ロブだって素晴らしいソングライターで、沢山のアイディアを持っていたよ。彼は左利きだったから、「ちょっと貸してくれ」と言って、ギターを逆向きに弾いたりしていたな(笑)。そんな感じだったから、初期のアルバムを聴き返しても、どの曲に誰のアイディアが使われていたのか判別出来ないんだ。「このリフは俺が考えたんだっけ?」「いや、あれはロブのギター・リフだ」「いやいや、マークだったよ」…なんてことになる。ただ、みんなが同じ方向を見ていたのは間違いない。それは凄く良かったね。
──4人組だった頃から、ジョンがずっとリード・ヴォーカルを執っていたのでしょうか?
ジョン:最初の頃はみんなで分担していたよ。主に俺とマークが交代で歌い、ポールが歌うこともあった。確か、STATUS QUOのカヴァーをやる時は、マークとポールが歌っていたな。でも、’79年のライヴ音源を聴き返すと、もうその頃には殆どの曲を俺が歌うようになっていたよ。当時は、DEEP PURPLEの「Mistreated」とか、MONTROSEの「Space Station #5」とか、JUDAS PRIESTの「Hell Bent For Leather」なんかをプレイしていた。
 その手の曲はTVでもよく流れてて、AC/DCの「Rock’N’Roll Damnation」を聴いたら、「よし、この曲を覚えてクラブで演奏しよう」となったし、CHEAP TRICKの「Clock Strikes Ten」なんかもプレイしていたな。とにかく、テンポが速くて楽しい曲なら何でもやったよ。
 ただ、ロブが入ってからは、どんどんオリジナル曲が増えていって、いつしかカヴァーと半々になり、やがて3/4がオリジナルになって、最終的には全曲オリジナルで揃えられたよ。あの当時は、ニューカッスルの郊外、ウェスターホープのクラブに出ていてね。俺達がプレイするのをTYGERS OF PAN TANGの連中が観ていて、そこにはもうジョン・サイクスもいたし、プロデューサーのクリス・タンガリーディスもいて、「おお、みんな勢揃いだな」って感じだった。
 あの頃は1日2回のショウをやっていたんだけど、クラブの役員に気に入られないと、1回目を終えたらギャラを渡されて、「はい、終わりね」と言われる。実際にそうなったことがあって、盛り上がっていた観客が暴動寸前になってさ。それを見て喜びつつ、俺達は「もうここでは2度とプレイするもんか!」と言ってやったよ(笑)。
──当時、RAVENはずっとニューカッスルを拠点にしていたのですか?
ジョン:最初のシングル(「DON’T NEED YOUR MONEY」)を出すまで、ロンドンに行ったことすらなかった。ずっと北東部だけで活動していたんだ。というか、ロンドンへ進出する術が何もない。いつも冗談を言い合っていたよ。機材車に乗って「さぁ、ロンドンへ乗り込むぞ!」って。でも、行ったところで「どうするんだ?」ってなる。俺達にはエージェントもいなかったし──バンド仲間からは、「ロンドンへ出てはみたものの、上手くいかなかった」っていう話も聞いていたし…。そもそも俺達にはサポート体制ってのが整っていなくてね。でも、Neat Recordsと契約し、シングルを出したことで、ようやくその道が拓けたのさ。
 シングルを出すと、ジョン・ピールっていう影響力のあるBBCのDJが曲をかけてくれた。彼はいつも新人バンドを取り上げてくれたからね。良いか悪いかなんて関係なく、とにかく新しい音楽をかけて、誰かにチャンスを与えていたのさ。それで、RAVENのシングルもオン・エアーされ、それを聴いたオジーが、「あのバンドを前座に」と言ったそうだよ。俺達って、そういった不思議な縁や偶然の積み重ねに恵まれていたんだな。

──Neat時代によく使っていたインパルス・スタジオはどこにあったのですか?
ジョン:ニューカッスルの西郊外、ウォールズ・エンドっていうところにあった。中心部から西に2~3マイルってとこかな。俺達はその反対側──東に2マイルのところに住んでいたから、スタジオまでバスを使う必要があってね。路線番号39か40のバスだった。また別の路線には20番と21番があって、それぞれファースト(『ROCK UNTIL YOU DROP』)とセカンド(『WIPED OUT』)のアコースティック・ナンバーのタイトル(それぞれ「39/40」と「20/21」)になっているよ(笑)。
 インパルス・スタジオは昔、劇場だったんだ。スタジオは楽屋の中──最上階の楽屋に設けられていた。いま考えると、本当にごくごく基本的なスタジオだったな。ロンドンのトライデント・スタジオにあった、ストゥーダーの16トラック・テープレコーダーを備えていてはいたけどね。デイヴィッド・ボウイの『THE RISE AND FALL OF ZIGGY STARDUST AND THE SPIDERS FROM MARS』(’72)のレコーディングにも使われていたヤツだ。だから歴史があって、それは良かったんだけど、エフェクトなんて何もない。何もかも自分達でつくり出さないといけなかったのさ。
 「Rock Until You Drop」のイントロで鳴っている音は、スタジオの床にプラスティックのコップを敷き詰めて、その上に乗ったり、叩いたりして出したんだ。そう、俺達はとってもクリエイティヴになっていた──いや、そうせざるを得なかったんだよ。どこにも“魔法のボタン”なんてなかったからね。何でも自前で用意する必要があった。でも、それが良い経験になったよ。学ぶには最適な時期だった。そうやって這い上がってきたのさ。インパルス・スタジオのメイン・プロデューサーだったスティーヴ・トンプソン──彼はソングライターでプレイヤーでもあった──からも、沢山のことを教わったよ。多くの貴重な教訓を学んだね。
 そうした経験が、その後のマイケル・ワグナーとの仕事に活かされ、勿論その時も沢山のことを学び、次にエディ・クレイマーと仕事をした時、気付いたんだ。「おい、もう俺達だけでやれるんじゃないか?」ってね。もはや自分達が何を求めているのかハッキリ分かっていたし、誰かに何か言われる必要なんてなかった。それで、’80年代後半からはプロデューサーは要らない…となった。それからずっとそんな感じでやってきているよ。
──インパルス・スタジオでVENOMのクロノスが働いていた…というのは本当でしょうか?
ジョン:ヤツは言わば“お茶汲み係”として、そこにいたよ。まぁ、テープ・オペレーターとか照明係なんかはやっていたけど──イングランドには職場体験の制度があって、ほんの少しの給料で雇われ、それで経験を積んだことにして、他の仕事に就けるようにする…というのがあるんだ。そんな感じで、確かにその場にはいたな。
──レコーディング・エンジニアとしてのスキルを磨いていた…とか?
ジョン:(即答で)違う、違う! 全くそんなことはない。ヤツが出来たのは、せいぜいお茶を淹れることぐらいだった。ただ、スタジオのボス、デイヴィッド・ウッドにいつも話し掛けてはいたな。「俺もバンドをやってるんだけど、レコーディング出来ない?」「ねぇ、レコーディングさせてよ!」って、何度も頼み込んでいたんだ。それで、「じゃあ、ちょっとやってみるか?」となって、要は初期VENOMってそんな感じだったみたいだ。でも、ヤツが「俺はエンジニアをやっていた」なんて話は──俺も聞いたことがあるけど、まったくもって事実じゃない。そんなのあり得ないよ。
──NWOBHM当時の思い出深いライヴやツアーを教えてください。
ジョン:やっぱり、オジーとの初めてのツアーだね。何しろ、あれが初めての“本物の”ツアーだったからな。あと、本数の多さでいうと、’82年のGIRLSCHOOLとのツアー。あの時は27~28公演やったと思う。それまではニューカッスルを出たとしても、クラブ廻りを4日間とかそれぐらいしかやっていなかったから。ロンドンでプレイしても、またすぐに戻ってきて…とかね。あと、MOTÖRHEADともWHITESNAKEとも2公演ずつしかやらなかったし。

──MOTÖRHEADのレミー(・キルミスター:B,Vo)との思い出は何かありますか?
ジョン:あれは『IRON FIST』(’82)に伴うUKツアーの序盤だったな。恐らく、MOTÖRHEAD史上最大のツアーだったんじゃない? 俺達はリーズとチェスターの2公演でオープニングを務めたんだ。前者はクイーンズ・ホールという馬鹿デカいハコで、後者はディーサイド・レジャー・センターというアイススケート場だったと思う。彼等は…とにかく酔っていたな。いつもヘベレケで、信じられないぐらい酔っ払っていたよ。もうステージに上がるのもやっとなぐらいでね。(“ファスト”)エディ(・クラーク:G)のセットリストには、各曲の横にキーが書いてあって、とりあえず音を出した時、「ああ、このキーか」って確認出来るようになっていた。演出も凄くて、演奏が始まった時、そこには何もなくて、やがてバンドが乗ったステージが上から降りてくるんだ。あれは凄かったな。
 あと、その翌年──’83年の夏に、METALLICAとの“Kill ‘Em All for One”ツアー中、(米ニューヨーク州)バッファローでMOTÖRHEADと再び共演する機会に恵まれた。その頃、もう(ギタリストは)ブライアン・ロバートソンに交代していたけど、レミーは俺達のことを憶えてくれていて、1日中ジョークを聞かされ続けたよ。ブライアンは朝っぱらから泥酔していて、ずっと床に寝転がっていた。その時のプロモーターが、あの悪名高いハーヴェイ・ワインスタインだったのも、今では良い思い出さ(笑)。彼は後年、(性暴力が発覚して逮捕され)刑務所にブチ込まれてしまったけど、あの頃は勿論、何も知らなくて──レミーやブライアンだけじゃなくて、とにかくクレイジーな状況だったことは間違いない。
 とにかく、レミーから1000回はジョークを聞かされたなぁ(苦笑)。あと、終演後のことだ。いつも俺達は楽屋へ行き、誰も忘れ物をしていないか“お馬鹿チェック”と呼ぶ確認をしていたんだけど、そんな時、会場のキッチンのドアが開いて、奥の冷凍庫からレミーが出てきた。ピタパンの箱の山を抱えてね…。俺とマークが「あの…何やってんすか?」と訊くと、レミーは(モノマネして)「何か盗んでやらなくちゃと思ってさ」と言うんだ(笑)。あれは最高だったな!


 その後も、初期の“Wacken Open Air”で、あとベルリンでも共演する機会があった。レミーの最後のショウのひとつを観ることも出来たよ。その時は、ミッキー(・ディー:Ds)とフィル(・キャンベル:G)に挨拶して、レミーにも会いたかったんだけど、既に酷く具合が悪かったから、彼は誰にも会わなかった…。まったく…どうやって彼が演奏していたのか分からなかったな。2人がかりで担いで移動させていたし、本当に酷い状態だったんだ。でも、彼は本当に演奏出来なくなるまでステージに立ち続けた。あれには驚いたよ。
 ただ、若い頃のレミーはとても面白くて、最高にブッ飛んでて、本当にクレイジーだった。うん、彼と知り合えて交流を持てたことを誇りに思うよ!
──ハイ…そうですね!
ジョン:ツアーの話に戻ると──実は’82年の早い段階まで、俺はまだ(バンド活動以外の)仕事をしていてね。週末にプレイし、家へ帰ってきて、仕事に行って、ヴァンでツアー先へ行って、また仕事に戻って、あとは寝るだけ…みたいな感じだったよ。だから、2公演…あるいは3公演やるのが精一杯だったんだ。何とか4公演コナしたこともあったけど──そう、GIRLSCHOOLと長期のツアーに出るまではね。そしてようやく、’83年になって少し長めのツアーに出られるようになった。それでも英国内で6公演か7公演だったけどさ。
 ヨーロッパでは、’81年にイタリアで初めて3公演を行ない、それからオランダでも3~4公演やって、その後は、何度もオランダでプレイする機会に恵まれた。毎回、5~6公演はやったかな? そのあとでいうと、やっぱりMETALLICAを前座に付けての“Kill ‘Em All for One”ツアー(’83年)だな。あれはGIRLSCHOOLとのツアーよりも少し長かったから。
 ところが、それから30年以上経って、俺達はバンド史上最長のツアーを行なうことになった。’17年のことだ。マイク(・ヘラー:Ds)が5月に加入し、そこからその年の暮までに150公演以上やったんだぜ。半年間ずっとツアーさ。あれはイカれてたな(笑)。あんなに長いツアーはそれまでになかった。でも、それこそまさに俺達がやりたいことなんだ。今年(’26年)だって、このあと長期のツアーに出るしね。
 今のところアメリカ36州を廻る予定で、もしかしたらもう少し増えるかもしれない。さらに5月にはヨーロッパ・ツアーが続き、14公演を行なうことになっている。(※その後19公演に) その後は、上手くいけば7月に新作のレコーディングを始めて、9月にはまたヨーロッパへ戻り、10月には南米へ…。勿論、’27年もまだまだツアーは続く。まだ内緒だけど、素晴らしいパッケージが控えているんだ。新作が出たら、きっと日本にもまた戻ってくることになるよ!


──RAVENも勿論ですが、LORDS OF NWOBHMでの再来日も期待しています。それまでどうかお体に気を付けて…!
ジョン:ありがとう! RAVENのニュー・アルバムも楽しみにしていてくれ。新しい曲にはワクワクさせられている。本当に、本当に良い曲ばかりなんだ…!!

[SET LIST:11/01/26@HOLIDAY SHINJUKU]
1.Land Of Hope And Glory@Elgar(SE)~Riding With The Angels(SAMSON) 2.Shellshock(TANK) 3.Getcha Rocks Off(DEF LEPPARD) 4.Children Of The Earth(PRAYING MANTIS) 5.In The Heat Of The Night(DIAMOND HEAD) 6.Break The Chain(RAVEN)~B Solo 7.(He Fell in Love With A) Stormtrooper(TANK) 8.Hellbound(TYGERS OF PAN TANG) 9.Lovers To The Grave(PRAYING MANTIS) 10.Princess Of The Night(SAXON) 11.Women And Rock(PERSIAN RISK) 12.Don’t Need Your Money(RAVEN) 13.Angel Witch(ANGEL WITCH) 14.Am I Evil?(DIAMOND HEAD) [Encore]15.Phantom Of The Opera(IRON MAIDEN)

[SET LIST:12/01/26@HOLIDAY SHINJUKU]
1.Land Of Hope And Glory@Elgar(SE)~Riding With The Angels(SAMSON) 2.Shellshock(TANK) 3.Riding High(PERSIAN RISK) 4.Children Of The Earth(PRAYING MANTIS) 5.Hellbound(TYGERS OF PAN TANG) 6.In The Heat Of The Night(DIAMOND HEAD) 7.Break The Chain(RAVEN)~B Solo 8.(He Fell in Love With A) Stormtrooper(TANK) 9.Princess Of The Night(SAXON) 10.Lovers To The Grave(PRAYING MANTIS) 11.Don’t Need Your Money(RAVEN) 12.Women And Rock(PERSIAN RISK) 13.Am I Evil?(DIAMOND HEAD) 14.Angel Witch(ANGEL WITCH) [Encore]15.Ace Of Spades(MOTÖRHEAD) 16.Phantom Of The Opera(IRON MAIDEN)

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